京都労演機関紙 2012年3月掲載

保名菊


 ひとり芝居の旅を始めた頃だった。今から
25年ほど前、エッセイストの岡部伊都子(19232008)さんの講演と僕のひとり芝居を組合わせた催しがあった。
 岡部さんは「戦争」とは、「差別」とはと訥々と語られていた。見習士官であった婚約者が「僕はこの戦争には反対です。こんな戦争で死にたくない。天皇陛下のためになんか死にたくない。君やら国のためになら死ぬけれど」と言った時、岡部さんはびっくりして「私なら喜んで死ぬけど」と言って日の丸の小旗を振って送った。彼は敗戦間際の沖縄で戦死した。そういう時代だったと言えばそれまでだが、彼女は自らを生涯「加害の女」と評した。「恋人を人殺しにやって、殺されたようなもんや。」

 以来、僕は京都に行くと度々、出雲路の岡部さんのお宅にお邪魔して今にして思えば貴重なお話を伺ったが、なにぶん聞き手はそれをただ聞き流し季節ごとに移ろう庭の草花を眺めては「いい時間だなあ」と思っていただけで記録も録音もしていない。「後悔先に立たず」である。それでも、いつも大きなリュックサックを背負って訪ねてくる貧乏な役者の先行きを心配されてかある時、僕のために「跋」を書いて下さった。

「人の命は時間。お互いに底知れぬ個の深みをたたえて。信じるに足る自分を創りたく。真なるものとめぐり会いたく。中西和久さんは、熱いひとり芝居で、見る者の魂を純な火の玉としてこられました。れいろうの涙を燃える力として。敬愛する表現者でいらっしゃいます。」

 また『しのだづま考』を創って間もないころ「いっぺんも袖通してないのやけどな。『保名(ヤスナ)(ギク)』いう柄や。ええ(ヒト)でけはったら着せたげて。」浅葱に藍色の小菊が散りばめられた浴衣だった。「保名菊」は1970年代まで和泉市の丘陵地帯のそこここに咲き乱れていたという。岡部さんから頂いた僕の宝物、ふたつ。