「悲劇喜劇」 2006年10月号 掲載 |
私の初舞台 |
『浅草キヨシ伝・強いばかりが男じゃないといつか教えてくれたひと』
(井上ひさし・作/小沢昭一・演出)
という長い題名の芝居が僕の初舞台です。
1977年の秋でした。
その前年、大学を卒業すると同時に、僕は小沢昭一さんの主宰する「芸能座」の演出部研究生となっていました。
劇団受験の時「演技部でも演出部でもどちらでもいい人」と質問されたので「受験生はワンサカ来てるし、別に大学で演劇の勉強をしてきたわけじゃなし、どうせ不合格だ」と思いながら半ばあきらめ気分で「はい!」と手を挙げていたのです。
そういえば、最終面接ではやけに「身体は丈夫か?」とばかり聞かれました。
なにしろ新人の演出部は朝から晩までチョコマカ働かなきゃならないのです。
確かに体力は必要でした。いや、その年は「花形募集」とあって演技部には美男美女しか入れなかったのです。10人の演技部に演出部が僕ひとりでした。
一期上に今や大御所の栗山民也さんがいました。
その頃小沢さんは、永六輔さん野坂昭如さんと組んで「花の中年御三家」を結成し、武道館を一杯にしてコンサートを開いていました。
「花の」というのはたぶん自分たちで勝手につけたのでしょう。
「芸能座」はその御三家の一角、小沢さんが座長で、永さんが旗揚げ公演「清水次郎長伝伝」を書き、井上ひさし先生が次々に話題作を提供し…年中お祭騒ぎをやっているような人気の一座で、しかも「5年で解散」を決めて旗揚げした「時限劇団」でした。
演技指導に劇作家・演出家のふじたあさや先生、ダンスやクラウン芸など体技指導に向井十九(とく)先生。たまに小沢さんや文学座を退団してこの劇団に参加されていた加藤武さん、音楽指導に神津善行さん、獅子舞の指導に国の重要無形文化財松本源之助師匠など錚々たるメンバーが僕らの指導に当たられていました。モッタイナイことです。
さて、一座に入って1年ほど過ぎたころ、僕は演技部に移されました。ふじた先生が一年目の研究生取捨選考の時、「中西は裏より役者のほうがむいているでしょう」と小沢さんに進言されたそうで…良かったのか悪かったのか…。演出家の「ダメ」は恐ろしい!
『浅草キヨシ伝』は、浅草に実在するホームレスでなぜかストリッパーの才能を見る眼力だけは確か。
キヨシが気に入ればその娘は必ずスターになるという伝説の「浅草キヨシ」を主人公に、浅草に所縁のあるさまざまな人々(永井荷風・高見順・高村光太郎・王貞治・昭和天皇等等)が登場して浅草を語る、浅草を語りながら昭和という時代を語る、しかもその実在の登場人物たちが何処かで書いたり言ったりした言葉を丹念に調べ上げつなぎ合わせて、それをてんぷくトリオのコント(「井上ひさし笑劇集」より)を挿みながら進行していくという、井上先生のお芝居の中でもチョット変った戯曲でした。
この芝居の稽古は、次々に出てくるコントを若手にやらせることからはじまりました。
僕らに与えられた最重要課題は「てんぷくトリオ以上にお客さんを笑わせること」でした。
伊豆・下田のお寺での夏季合宿からコントの稽古が始まり、秋口には稽古場で座内オーディション。裏方だった僕が舞台に立つことになりました。
遅筆の先生の戯曲ですが、てんぷくトリオのコントですから、幸いなことにその部分だけは前もって台詞がありました。
さらに僕はなぜか川端康成に似ているといわれこの役も頂戴しました。チビだし当時はまだガリガリに痩せていました。
ストリッパー役の女優陣は、稽古場では乳首にスパンコールのアクセサリーをつけてそれを乳房の揺れだけでグルグル回すという曲芸のようなダンスの稽古に明け暮れていました。
ヘンな世界に入ったものだと思いながら、稽古場の片隅で僕はその光景をじっと見つめていました。
このとき僕のやったコントは「改札口」の国鉄職員、「スターと吹き替え」の吹き替え役者、「交番日記」の男など合わせて5役です。
川端康成は「カジノ・フォーリー」の「ズロース事件」の顛末を語るのですが、初舞台の台詞というのは30年たった今でもスラスラと言えるのですから不思議です。
また、この芝居には松竹新喜劇を退団したばかりの小島秀哉さんが客演されていました。
初日の幕が開き、秀哉さんが登場すると客席から大向こうがかかりました。
大阪からファンが大挙して詰め掛けていたのです。
「秀哉!大阪、帰って来い!」
「お前のやる役とちゃうう!」
大阪は熱い!
初舞台の幕開きで僕はまず、お客さんに感動していました。
さらに、昭和天皇が浅草の乞食と一緒にカツ丼を喰らう。
ストリッパーと一緒に出演するという話題性もあって、右翼からは脅迫状が舞い込み、楽屋口には私服の警官が張り込むというスリリングな幕内でもありました。
俳優修業のABCは全てこの舞台からいただきました。
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