「悲劇喜劇」 2004年2月号 掲載 特集 わたしを育てた観客 |
千客万来 |
熊本県北部に位置する菊池野の国立ハンセン病療養所『恵楓園』を訪れたのは、2002年の5月でした。九州の放送局で製作している「中西和久ひと日記」というラジオ番組の取材で伺ったのですが、ハンセン病に関する知識といえば時折、新聞やテレビで見聞きする程度、ましてその療養所に足を踏み入れることなど初めてのことでした。 六十二万平方メートル(東京ドーム14個分)の広大な敷地には、住宅、病院はもちろんマーケットや図書館、集会所、ホール、菜園、教会、各宗派のお寺、神社そして納骨堂まで・・・・。ここは一つの町でした。 緑したたる五月の恵楓園は、さわやかな風が吹き抜け、小鳥のさえずりがのどかです。ここに現在約700名の患者・元患者さんが暮らしていました。しかし、その園内にしばらくいて、はっと気づきました。天気の良い昼さがり、普通の町では普通に聞こえているはずの「子どもの声」がまったく聞こえて来ないのです。ここには子どもの姿がありません。断種、堕胎が制度化されていたのですから・・・。
入所者自治会々長の太田明さん(60歳)のお話はその入り口から、僕」の貧しい想像力を打ち砕きました。彼は八歳の時にここへ隔離され、入所の初日に、死亡時の「解剖同意書」に拇印を押させられたそうです。ここに起居する人々すべてに、僕の想像力では到底及ばぬ過酷な歴史があるのでしょう。
その頃、僕の説経節ひとり芝居『をぐり考』(ふじたあさや作・演出)山鹿八千代座十二月公演が同桟敷会・京楽座の共催で決定していました。 『をぐり考』は中世の放浪芸説経節「小栗判官・照手姫」の恋物語をふじた先生が現代的社会的視点から再構成されたものです。地獄から蘇った小栗は見るも無残な「餓鬼阿弥」となってこの世に蘇りますが、藤沢から熊野湯の峰まで、病本復のため土車に乗せられて心ある衆生に曳かれて行きます。薬湯の力で蘇生を果たした小栗はめでたく照手と結ばれるという結末ですが、餓鬼阿弥が土車で運ばれた天王寺から熊野までのこの道は、今でも「小栗街道」と呼ばれ、かつてはハンセン病患者が熊野の湯を目指して通った道とも伝承されています。 また、山鹿八千代座は時代の流れの中で廃屋同然となっていたのを、町の老人会や青年達の力で見事に復興。1988年には国の重要重要文化財となり今では山鹿のシンボルです。 そして2001年、菊池恵楓園の皆さんは「ハンセン病国家賠償訴訟」に勝訴していました。 そこで自治会の皆さんに提案しました。「師走の八千代座、観に来ていただけませんか?」 「私達が入って、いいですか?いっぺんも入ったことはないですよ。よかですか」
菊池恵楓園は明治42年の開設。八千代座は明治43年創建。ほとんど同じ時間を共有し、隣町であるにもかかわらず、この園の人たちが八千代座に足を踏み入れることはなかったのです。 「俺達も芝居は好きでね。自分達でやりよったバイ。園内歌舞伎て言う」 資料室に案内していただいて驚きました。衣裳、カツラ、小道具、台本、そして入所者の皆さんがホールで上演中の舞台写真まで展示されていたのです。 僕はそれまで『しのだづま考』で二度、八千代座の板を踏んでいましたが、その隣町の恵楓園の存在は頭の片隅にもありませんでした。当然のようにハンセン病元患者さんたちが芝居小屋から排除されてきた歴史も知りませんでした。しかも、自らが台詞の中で「ハンセン病」を語りながらです。「千客万来」の俳優という仕事に就きながら、その「千」の中にも「万」の中にも入れなかった人々のいらしたことに思いが及んでいませんでした。 「恵楓園の皆さんを八千代座へ!」という提案は、桟敷会の皆さんにも受け入れていただき、話を進めるうちに恵楓園入所者自治会も主催者として名を連ねることになりました。恵楓園、八千代座、京楽座この三者を結びつけたのは「蘇生」という一つの言葉でした。「人権の蘇生」「千客万来の芝居小屋の蘇生」「今に生きる演劇としての蘇生」。三者それぞれに思いを抱きながらの取組みが始まりました。上演までの道のりには、たいへんな紆余曲折あったものの、師走の八千代座は大入り満席。どなた様にも伏して御礼申し上げます。
この公演から1年ほど過ぎた2003年11月、公演先の旅館でペラペラと新聞をめくっていると恵楓園の皆さんが近隣の温泉から宿泊を拒否されたとの記事が目に飛び込んできました。入所者お一人おひとりの顔が瞼に浮かび「千客万来」という言葉が胸に迫ってきます。 色とりどりの枯葉の絨毯に敷き詰められた恵楓園に今年はどんな師走の風が吹いていることでしょう。「冬来たりなば春遠からじ」とか。菊池野にどうぞ暖かいお正月の訪れますように。
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