「悲劇喜劇」 2004年11月号 掲載 特集 現代劇の戦争と平和
戦争を知らない世代から
 コンサート・ドラマ『ピアノのはなし』(脚本/中西和久)のあらすじはこうだ。
 1945年5月末、九州佐賀県鳥栖市の小学校に二人の特攻隊兵が訪れた。二人は明日沖縄の海に向かって飛び立つという。
「先生、死ぬ前に一度だけ、思いっきりピアノを弾かせてください!」
 鳥栖小学校には、母親達が「この町には贅沢なものは何もないけれど、せめて美しい音楽で子供達の豊かな心を育ててやりたい」との思いから、お金を出し合って学校に寄付したドイツ製のフッペルのグランドピアノがあった。
 小学校といえばオルガンしかなかった時代、まして田舎町にグランドピアノは数少なかった。青年たちは朝からグランドピアノを探し回り、長崎本線を伝い、三里の道のりを歩いてやって来たのである。聞けば東京音楽学校ピアノ科の学生という。音楽担当のおなご先生は校長の許可を得ると早速ピアノのふたを開けた。
「先生、何か楽譜はありませんか?」
「ええ、私は今、ベートーベンのピアノ曲集の中から『月光の曲』を練習しています。もしこれでよかったら・・・」
 小学校の体育館に「月光の曲」が流れ始めた。もう一人の青年は楽譜をめくった。
 聴衆は19歳のおなご先生ただ一人。
 翌朝、二機の戦闘機がこの小学校の上空をぐるっとひとまわりして、翼を振りながら南の空へ消えていった。

 原作は1990年5月27日、KBC九州朝日放送のラジオドキュメンタリー「ピアノは知っているーあの遠い夏の日」(構成・脚本/毛利恒之)である。
 後にこの放送を元に映画「月光の夏」が製作され小説や絵本、舞台劇ともなっているが「ピアノのはなし」を脚本化したのは、1992年のことだった。初演は1994年2月、茨城県岩瀬小学校の体育館。
 
 たまたま九州の放送局で僕が、ある番組のナレーションの仕事をしている時のディレクターが「ピアノは知っている」の担当ディレクターでもあったのだ。「中西さん、これひとり芝居になりませんか」といってくれたのがこの番組のテープだった。
 この番組は、鳥栖小学校で永らく音楽の先生をしていた上野歌子さんが、このドイツ製のグランドピアノが廃棄処分になると聞き、ピアノとのお別れに全校生徒を前に、このピアノにまつわるお話をされたのが、オンエアされたのだった。
 上野歌子さんの言葉の一つ一つは流石に何十年と子ども達に話しかけてきた人のもので戦争や特攻隊について知らない子ども達にもわかりやすくやさしく語りかけてあった。この物語をひとり芝居にしようとした大きな要因が上野歌子さんの言葉の優しさだった。だから、「ピアノのはなし」の脚本の台詞の多くは上野さんの言葉をいただいている。

 『戦争を知らない子どもたち』(北山修・作詞/杉田二郎・作曲)という歌が流行ったのは、僕が高校生の頃だった。
 僕達は戦争を知らないといっても、情報としてあるいは知識としては知っている。僕らの親たちは戦争を体験し、肌身に感じ、骨身に染みて知っているのだ。僕らはこの歌を屈託なく、高らかに謳いあげていたのだが、今その親達の年齢になってふと感じるのだ。僕らがこの歌を高らかに謳いあげていた時に、親達はどのような気持ちで僕らを見ていたのだろう。
 戦争を知っている大人たちが戦後の日本経済の牽引役だった。エコノミックアニマルと呼ばれ、生きるためには何でもやった。生き残った人たちは死んでいった者たちへの後ろめたさもあったのか、過去を振り返ることはしたくなかったのか、いや伝えようとする時間も与えられず、振り返る時間も与えられず、自分を振り返る時間もなく・・・戦争を知っている大人たちはその生涯を通じて自分の時間がなかったのかもしれない。
 そして、『戦争を知らない子どもたち』を高らかに謳っていた僕らは、大人に対する反発心ばかりで、大人たちと一緒に考える心のゆとりはなかった。

 全くの私事だが、僕の父は中国北東部(旧満州)で敗戦とともに武装解除され、シベリヤに5年間抑留された。母は乳飲み子の姉を抱えて満州から引き上げてきた。父が抑留から解放され、帰国してから生まれたのが僕だ。戦争を骨身に染みて「知っている」父は、その体験を積極的には話そうとはしなかった。いや僕もあえて聞こうとはしなかった。父が亡くなって30年になるが、今になって大切な財産をなくしたような気がしてならない。
 小さい頃、5月の節句の幟を見て父に聞いたことがあった。
「僕の名前はなんで和久っていうと」
「平和が永久に続きますようにていう意味たい」
父がボソッと言った。
 戦争を体験した人は、伝えることのもどかしさ、たとえ百万言を費やしても伝えられるものではないことを心底わかっているのかもしれない。父は、自らの戦争体験を伝えるために、あるいは記憶するために我が子に「和久」と名付けたのか。少なくとも僕は、生涯にわたって「平和よ永久に」と書き続けねばならない。「和久」という名はたぶん父が戦場から命からがら持ち帰ったのだ。
 「ピアノのはなし」の最終章では、特攻隊で戦死した若者達の写真をオーバーラップさせながらその遺書の数々を僕は読むが、最後に「月光の曲」とともに憲法九条をスライドで登場させる。自分の一番大切な人への人生最後の手紙は、自らの死を無理やりに納得させようとしているかのようであまりに痛ましく、毎回胸が締め付けられる。「戦争を知らない」僕は、この遺書に呼応する僕らの言葉を捜した。それが憲法九条だった。この言葉は現在の僕らだけにではなく、世界の人々との約束の言葉、そして過去の人々への誓いの言葉でもあると思ったからだ。改めて読むとキッパリとして堂々として何とつつましやかな言葉だろう。
 戦争のあった時代は、自由にまともなことが言えなかった時代という。ならば、こうして自由に芝居を演ったり見たりできる時代に育った僕にできるせめてものことは、それが稚拙でもいい、戦争という最大の人権侵害を二度と繰り返さないための表現者としての「不断の努力」だろう。