テアトロ2011年1月号
音楽劇志向の異化効果
京楽座公演『中西和久のエノケン』

―演劇評論家・中本信幸

 
京楽座『中西和久の「エノケン」』(作・演出=ジェームス三木)は、初演(2006年)、再演(2007年)を踏まえて一段と磨きをかけた逸品である。エノケンの愛称で親しまれた昭和の喜劇王榎本健一(1904−70)は評者の世代にとってはとりわけなつかしい。語り、踊り、いくつもの楽器をあやつる今回の中西の絶妙な演技も満喫した。中西を支える出演者、楽器演奏、スタッフの健闘を讃えたい。


 浅草の歌劇団のコーラスボーイとしてデビューしたエノケンが、関東大震災で活躍の場を失い、地方巡業で苦労したのち、復興した浅草に戻り、やがて戦前・戦後の喜劇王の王座を占める。戦後はテレビにも出演、絶頂期に病魔に襲われ右足切断、最晩年まで舞台に立ち続け、津々浦々の庶民の心を癒した。1932年に千田是也らのブレヒト『三文オペラ』に出演したエノケンは、期せずして今日のブレヒト流音楽劇の先達を勤めている。歌と踊りは世につれたが、語り・歌・踊り・楽器演奏を楽しみながら、エノケンのしたたかな生き方に励まされる
(10月30日、紀伊國屋ホール)。



鈴木太郎個人誌 「太郎の部屋」
芝居の日
<15> 2010年その4

―演劇評論家・鈴木太郎

1029日(金)
 京楽座「中西和久のエノケン」(東京・新宿・紀伊國屋ホール)。作・演出・ジェームス三木。エノケンとは昭和の喜劇王といわれた榎本健一のことである。芝居が誕生するきっかけというのは面白いものだと思う。この作品も作家が「あなたエノケンに似てますね」と、ふともらした言葉を俳優が覚えていて2年後に「エノケンやりたいと思います」と言ったことから実現したという。中西とエノケンの共通点は「小柄であること、身軽であること、バイオリンが弾けること、舞台では饒舌だがふだんは無口で面白くも何ともないこと」とはジェームス三木の言である。たしかに、中西和久の舞台は体当たりである。はじめてみた「しのだづま考」(ふじたあさや作・演出)のひとり芝居の熱気は忘れられない。たしかに饒舌だった

 
 この舞台の面白さは「本物のエノケン」が偽者の「中西和久のエノケン」を追及していく仕組みだ。本物のエノケンを中西が演じて、偽者のエノケンの中西は登場しないという見事な構図の上に、喜劇の要素も十分にあり楽しめた。戦争の悲劇とともに、後半には実人生がそうであったように、病魔とのたたかいも描かれる。しかし、エノケンおなじみの「エノケンのダイナ」や「洒落男」「東京節(パイのパイのパイ)」などの歌がふんだんに登場することで気持ちは晴れである。トロンボーンや三味線、ピアノなどをこなす中西和久の芸域の広さとともに、若手の出演者(海浩気や井上思麻など)もそれぞれに楽器をこなし、歌い、踊る。舞台は熱くなる。2006年5月の初演以来積み重ねてきた努力がうかがえる舞台であった。妹尾河童の舞台美術も簡潔さのなかでより効果があった

<「中西和久のエノケン」パンフレットより>
中西和久の武器

―演劇評論家・矢野誠一

 正直に言うが、「昭和の喜劇王」というサブタイトルのある『中西和久のエノケン』を観るまでは、中西和久という役者がよくわからなかった。

 演出家志望で、小沢昭一の芸能座の門をたたき、その後役者に転じ、徒手空拳で京楽座をひっ下げての活動ぶりの、むろんすべてを観ているわけでなく、いやむしろほとんど傍観してたのだから、判断のつけようがないと言ってしまえばそれまでだが、なかなか実体のつかみにくい役者だと思った。ただ、けっして上手くはないのに、どこか惹かれる不思議な愛敬があって、きらいじゃなかった。念のためお断りしておくが、私は役者に限らず、およそ藝術の範疇においての評価の基準は、良い、悪い、あるいは上手、下手よりも、好きか嫌いかが先行していいと考える者だ。

 どうもこれまで、中西和久に対する世間的な評価に煩わされていた気味があったような気がする。具体的に言うなら、『山椒大夫考』『をぐり考』『ピアノのはなし』『破戒』などの仕事を、「民衆の夢や希望に根差した社会的発言」だの、「伝統藝能の演技術を発展させた現代劇的批判精神」といった一面からとらえられた演技者という先入感をいだいていたのだ。

 だから、『中西和久のエノケン』を観るにあたって、期待とともにいささか危惧の念をいだいたのも否めない。

 言うところの十五年戦争が勃発から日中戦争に発展していこうとしていた時代、東京と言わずこの国を代表する歓楽街浅草を根城に、榎本健一=エノケンが寵児として君臨したのは、暗い冬の時代到来におののく、多くの庶民、学生、サラリーマンの熱狂的支持を受けたからにほかならない。こんな時代のヒーローを演ずるのに、中西和久に与えた世間的評価は強力な武器になる。

 私の危惧したのは、その武器をたやすく使いこなすことによって、社会的発言者あるいは時代批判的演技術の持主としての榎本健一が、舞台に抽出されてしまうことだった。それはエノケンの一面でしかない。と同時に中西和久という役者の、ごくごく一面でしかないはずだ。

 小男で、さして男前でなく、むしろひとから軽んじられていたエノケンが、ふとしたきっかけでヒーローとなって活躍する舞台や映画に、小市民とよばれた多くのひとたちが喝采を送ったのは、美丈夫とは言い難いエノケンの姿かたちが、自分たちのそれとさして変るところのないことに、大いに共感したからだ。それに加えて、たぐいまれなるエンターティナーとしての才覚への憧憬があった。これがエノケンの一面ではなく、本質であった。

 愛敬こそあれ、さしたる男前ではなく、どちらかといえばこれも小柄の中西和久は、『中西和久のエノケン』で、そのエノケンの一面ではなく、本質に近づいて見せたと思う。かくして私の危惧は杞憂に終ったのだが、世間の評価をはるかにこえる武器である、「藝人の血」が、中西和久の舞台には脈動している。


<「中西和久のエノケン」パンフレットより>
今、なぜ「エノケン」なのか

原 健太郎(大衆演劇研究家)

 
 エノケンこと榎本健一という喜劇俳優が、いかに波乱に富んだ人生を送ったかについて、『中西和久のエノケン』は、実に要を得た構成で語ってみせる。とりわけ、病魔との闘いに終始した後半生は、涙を禁じえないほど壮絶なものだ。ところが意外にも、舞台を観終えたわたしたちは、心浮き立つ春の日のような気分で劇場を後にすることになる……。


 二〇〇六年五月、新宿・紀伊國屋ホールでおこなわれた本作の初演の舞台は、鳴りやまぬ拍手のなかで初日の幕を下ろした。お安いテレビ番組にありがちの、「悲劇のヒーロー」などという図式ではなく、あくまでも、「喜劇に生きた俳優」として描かれたエノケンに、多くの観客が素直に感動を覚え、「笑い」のエネルギーを享受できたからにちがいない。

 トロンボーンを奏で、三味線を爪弾き、軽快にタップを踏む……そんな、あきれるぐらい熱心にエノケンに近づこうと努めた、主演の中西和久には、頭が下がるばかりだ。「昭和の喜劇王」と謳われたエノケンを、決してテクニックで「演じよう」とはせず、無心に「生きよう」としている舞台姿が、なによりうれしかった。
 
 小沢昭一主宰の「芸能座」で、俳優業をスタートさせた(一九七七年、井上ひさし作『浅草キヨシ伝』の川端康成役)中西は、喜劇の楽しさとともに、難しさをも十分に承知している。時代を見すえる豊かな感性をそなえ、初見の楽譜でヴァイオリンを弾き、容易にトンボを切ることができたエノケンが、いかに畏れ多い先達であるか、理屈ではなく、彼の肉体がわかっているのだ。
 とはいえ、エノケンとてたったひとりでは、単に特異な俳優でしかない。菊谷榮や菊田一夫らの作家をはじめ、才能と情熱にあふれたスタッフや共演者がいたからこそ、『民謡六大學』(一九三五年)や、『エノケン・ロッパの彌次喜多道中膝栗毛』(一九四七年)などの傑作喜劇を実現することができたのだ。ちょうど『中西和久のエノケン』が、ジェームス三木や妹尾河童といった、当代の逸材にささえられて、ここに幕が上がるように。

 今、わたしたちの目の前にある「笑い」は、はたして、「本当に面白い笑い」といえるのだろうか。演者とスタッフと観客が、「笑い」をめぐって真剣に渡り合っていた、エノケン喜劇の時代に思いをはせることは、すなわち、明日の喜劇を考えることではないか。

『中西和久のエノケン』には、そうした大切なメッセージがこめられているように思う。


2006年 8月号 月刊テアトロ 劇評
「昭和」の時代を回顧する
京楽座「中西和久のエノケン」

―演劇評論家・結城雅秀―

京楽座による「中西和久のエノケン」。

作・演出はジェームス三木で、主演は中西和久。
中西の作品は本来に「語り」である。
そこに彼の持ち味があるし、それが彼の強みでもある。
その意味で今回の作品は大変に成功している。
中西自身がエノケンになり切って、その一代記をモノローグで語るという方式である。冒頭からして、エノケンそっくりの中西和久が出てきて、「こら中西、逃げ隠れしねぇで、ここに出てこい」とやる。
この声や様子が誠にそっくりで、驚いた。
エノケンがエノケンのことを語るのである。

戦前の浅草から始まる。
「浅草ロ六区まつり」などの幟、「三友会」「オペラ座」などの看板が見える。
「青春水滸伝」についての回想、「カジノ・フォーリー」のこと、ともかく何とかして客を喜ばせよう、笑わせようと懸命だ。
エノケンという人が大変に真剣かつ真摯な人物であることが分かる。
その意味で、エノケン自身が役者・中西と重なる部分が多い。
エノケンは、実生活で榎本健一に戻ったときには口下手であり、陰気であったという。
また、喜劇役者が新劇役者より下に見られていた時代の不満を反映している。
差別に対する静かな憤りが舞台から感じられるのだ。
それに、中西にもエノケンにも何か寂しそうなところがあり、その「陰」は魅力のひとつである。
更に、松竹・東宝の映画時代、ブレヒトを脚色した「乞食芝居」の頃、満州事変と支那事変、空襲と敗戦、戦後における長男の病死と離婚、昭和45年の肝硬変による逝去と続く。
そうした時代を生き抜いた様子はそのまま、戦前戦後を通じた「昭和」という時代の一大絵巻を語ることになっている。
そこには、時代を反映しつつ、誠実に人生を生きたひとりの男の生き様が余すところなく描かれているのだ。
死の床で「ワタナベのジュースの素です、もう一杯。・・・不思議なくらいに安いんだ」と歌う箇所にも、あの時代の象徴を感じさせた。

劇中、多くの歌や踊り、それに楽器の演奏の場面があるのだが、中西和久は単にエノケンに似ているだけでなく、これらを実に器用にやってのけている。
芝居の中でエノケンが歌っている映画の主題歌は多くのジャズの替え歌で、見事なものである。
サトウ・ハチローが作詞した「ダイナー」の「替え歌、「ダンナー、飲ませてちょうダイナー・・・」などが耳に残る。
中西自身がトロンボーン、ヴァイオリン、トランペット、三味線を披露しているが、楽団には、サックス、クラリネット、フルート、木琴などを演奏する人々が揃っており、全員、とても楽しい雰囲気を出している。

美術(妹尾河童)は、折り畳み式のパネルから出来ているのだが、そこには黄金時代の浅草六区や、舞台、楽屋などが象徴的に描かれており、これらを開閉、回転させることで早急な舞台転換を可能としていた。

2006年5月26日、新宿・紀伊國屋ホール)